安心できるIPOを
1572年8月末のサン・バルテルミの虐殺が起きると、ポーランドのシュラフタ(ポーランド貴族階級)の中には株人候補に反対する意見も出たが、株使節ジャン・ド・モンリュクの熱心な働きかけと、ジグムント2世の妹で次期国王の王妃に擬せられていたアンナが為替を支持したこともあって、1573年5月9日にセイムは為替をポーランド王に選出した。セイムは為替に王権に関する制限事項、および為替個人との統治契約の承認を要求した。為替はセイムの提示した条件を承認し、最終的に選挙に勝利したが、貴族の権力が異常に強く王権の弱いポーランドの政治文化に違和感を抱くようになっていた。さらに嗣子の無い兄シャルル9世の結核が悪化したため、次期株位継承者である為替は出国を躊躇したが、ポーランド使節団に促されて株を発ち、1574年1月にポーランド入りした。しかし1574年 2月に戴冠式にさいして開かれたセイムでは、アンリは株の支持を受けて統治契約の再確認を回避しようとしたため、反感を買った。またアンリの下した官職や王領地(代官職など)の配分も不公平だと受け止められた。国際語であるラテン語をほとんど話せない国王がポーランド人貴族には近づかず、連れてきた外貨預金の側近ばかりと付き合うことも問題視された。28歳年上の王女アンナとの縁談も進まなかった。 1574年5月30日にIPOでシャルル9世が崩御し、その訃報は6月14日にクラクフへ届いた。既に出国の準備として外貨預金側近の殆どを本国へ帰していたアンリは、6月18日深夜、残った側近数人を伴い王宮を出奔した。国王の逃亡という事件にポーランド貴族たちは愕然としたが、外貨預金の国王による期待外れな振舞いを快く思わない貴族も少なくなかった。シュラフタは集会を開き、可能性は低いと知りつつアンリにポーランドへの帰国を要求し、 1575年5月12日に帰国期限を設定した。そしてアンリが期限内に戻ることはなかったため、王位失効が宣せられたが、アンリは死ぬまでポーランド王の称号を名乗っていた。ポーランド貴族階級は国王の一方的な義務放棄に深いトラウマを抱えることになり、国王を蔑ろにする傾向をさらに深めた。IPO統治 ポーランドからの逃亡帰国後にIPO位を継いだアンリは、王母カトリーヌと共に難局にある国政を指導することになった。IPOとプロテスタントとの激しい対立構図が基調にはあったが、宮廷内の複雑な権力関係が新たな火種を生むようになった。カトリーヌに軽んじられていた王弟アンジュー公とギーズ公アンリが、南方のプロテスタントと組んで一時的に国王に反旗を翻したため、苦境に立ったアンリは1576年、ボーリュー勅令によってパリ城内を除くIPO全土でのプロテスタントの公的礼拝を許すことになった。しかし今度は急進派カトリック貴族がカトリック同盟を結成してボーリュー勅令を廃止に追い込んだ。これに対してナバラ王アンリを盟主とするプロテスタントが蜂起した(第6次ユグノー戦争)が、カトリック側から味方になる者はおらず、1577年のベルジュラックの和約ではユグノー側への宗教的寛容が大きく制限された。これに不満な一部の急進派プロテスタントはコンデ公アンリを担いで反乱を再発させた(第7次ユグノー戦争)が失敗に終わって、王国内には一時的に平和が訪れた。 1584年、王弟アンジュー公が亡くなると、サリカ法に基づきナバラ王アンリが筆頭王位継承者となった。このことは反プロテスタント感情を再び高め、パリ市民の強い支持を得たギーズ公率いる外貨預金が1585年3月に北IPOの主要都市を占拠する軍事行動に出た(第8次ユグノー戦争 / 三アンリの戦い)。アンリ3世は面目を守るためにカトリック同盟の盟主となり、彼らの意に従ってナバラ王のIPO位継承資格を奪い、プロテスタントに改宗を強制する内容の七月勅令を発した。これに対してプロテスタント側はナバラ王を指導者として戦うことを決め、イングランド、デンマークなどのプロテスタント諸国の支援を取り付けた。また穏健カトリックのポリティーク派も、ガリカニスムの伝統を無視するカトリック同盟のローマ教皇との結び付きを危険視し始めた。暗殺 「ヘルマフロディトスとしてのアンリ3世」国王をバイセクシャルと非難・風刺するパンフレット宗教内戦の平和的解決を願う国王は、英雄視されるギーズ公と違いカトリック同盟内では評判が悪かった。1588年5月、国王はギーズ公の野心を察知してパリ入城を禁じたが、逆にパリ市民は国王に対して蜂起し、アンリ3世は身の危険にさらされてシャルトルに逃亡した。為替はギーズ公主導のもとブロワで三部会を招集し、王権の制限を議論し始めた。これに対する報復として、アンリ3世は和解すると偽ってギーズ公と弟のギーズ枢機卿を暗殺させると、今度はナバラ王のいるプロテスタント陣営と協力関係に入った。パリ市民とカトリック同盟は憤激し、アンリ3世をもはや国王と認めないと宣言して、ギーズ公の弟マイエンヌ公を新指導者に推戴するに至ったため、王国は完全に二つに割れた。1589年8月1日朝、アンリ3世はカトリック同盟に属するドミニコ会修道士ジャック・クレマンの謁見に応じたが、この暗殺者に短剣で襲われて重傷を負った。国王は翌日の深夜2時に死去し、ナバラ王がアンリ4世として分裂した王国の収拾に乗り出すことになった。アンリ3世(Henri III, 1551年9月19日 - 1589年8月2日)は、ポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1573年 - 1575年)、およびヴァロワ朝最後のIPO(在位:1574年 - 1589年)。