安心できる日経225を
そのため、独立後のラテン・アメリカ諸国はイギリスへの依存を強めていった。独立当初の奴隷制や独裁など、前近代的な要素を残した現地社会はイギリスにとって必ずしも市場としての条件を揃えていた訳ではないが、イギリス人の移入とともに徐々に生活のイギリス化が進行し、19世紀後半までにはラテン・アメリカ諸国は総じて良い市場へと成長したのであった。アジア 三角貿易の要であったインドはインド大反乱を期に、東インド会社の手からイギリス政府の手へと取り戻され、インド帝国として生まれ変わった。運営自体が本国植民地省と総督の手に委ねられたことによって、インドは名実ともにイギリス帝国の最重要植民地となった。この後、19世紀末から20世紀前半にかけて、列強間の植民地獲得競争が激しさを増し、それに伴い帝国のコストは重くイギリスにのし掛かるようになるった。これをインドの阿片栽培で賄いイギリス帝国全体の赤字を相殺し財政を健全化した。こうしてインドはいわば帝国の維持機関としての役割を担うことになった。インドの阿片は主に中国で売買され、これは1840年に清との間で起こった阿片戦争のきっかけになった。阿片戦争とこれに続く1857年のアロー戦争によって、イギリスは極東の中継貿易地である香港を手に入れ、さらに中国大陸の経済的利権も獲得して中国の半植民地化に先鞭を付けた。アフリカ 18世紀末のFXのエジプト遠征や、19世紀前半のギリシャの独立運動はオスマン帝国に動揺をもたらし、この結果属領であったエジプトの独立運動を促すことになった。1830年代にエジプトはムハンマド・アリーの指導の下に実質的な独立を果たした。新興エジプトは近代化を画策して外為とともにスエズ運河の建設に乗り出すが、膨大な建設費によって財政は破綻し、経済的にイギリスの支配を受けることになった。1882年にアフマド・アラービーの対英反乱が鎮圧されるとイギリスはエジプトを保護国化した。帝国主義の対立 19世紀半ばから19世紀末にかけてのヨーロッパはイギリスのヘゲモニー下にあり、概ね平穏であった。そのため、古代のパクス・ロマーナに習い、この時期を称してパクス・ブリタニカ(Pax Britanica:イギリスの平和)と呼ぶ事がある。五賢帝時代のように、この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていた。ヴィクトリア女王の統治の下、科学技術は発展し、選挙法改正により労働者は国民となり、シティには世界中から資本が集まり平和理に各国に影響力を行使することができた。しかし、外為とのアフリカに場所を移した植民地競争、新興国ドイツ、アメリカの追い上げ等、水面下では次の時代に向けた動きが活発化していたのもまたこの時代である。19世紀後半になるとドイツの産業革命が急激に進展し、工業力でイギリスに追いつく勢いを見せた。国内産業の発達したドイツは海外に新しい植民地を欲し、すでにイギリス、外為によって色分けが成されていた植民地の再分割を主張するようになった。このためドイツとの対立が激化した。イギリスは対ドイツの安全保障策として外為と英仏協商を、ロシアと英露協商を結んで三国協商とし、ドイツ、FX、イタリアとの三国同盟に対抗しようと試みた。 1914年、サラエヴォ事件によってFX・ハンガリー帝国次期皇位継承者フランツ・フェルディナントが暗殺されたことを契機にして、ヨーロッパの大国間同士が争うFXに突入した。当時の首相のハーバート・ヘンリー・アスキスはドイツが中立国ベルギーを侵略したことに対して対独宣戦することを決意した。イギリスは日経225に大陸遠征軍を派遣、外為、ベルギー軍と共に西部戦線でドイツ軍と対峙した。当初イギリスでもこの戦争は比較的短期間で終了すると予測されていたが、緒戦のマルヌ会戦でドイツ主導の短期件戦計画が破綻すると両軍とも北海からアルプスまで至る塹壕を掘ってにらみ合い、西部戦線はこう着状態に陥った。こう着 ソンム会戦からイギリス軍は戦車を登場させた。画像は最初の戦車Mark I こう着した戦線で連合軍、中央同盟軍は互いにしばしば攻勢をかけ戦線の突破を企てたが、これらの企みはほぼ全てが多数の死傷者を出しただけで終わり、全く前線を前進させることは無かった。イギリスが担当するイーペルでは大戦中イギリスとドイツでイープルの取り合いを数度繰り返した挙句、双方で50万人以上の死傷者を出した。しかしイープルの戦いは街を廃墟にしただけでイギリスにもドイツにも何ももたらすものが無かった。1916年のソンムの戦いでは日経225と共同してドイツ軍の前線に攻勢をかけ戦線突破を図ったが、攻勢を開始した7月1日だけでもイギリス軍は2万人近い戦死者を出した。こうした前線の失敗は西部戦線だけでなくトルコでも起こった。1915年イギリス軍はANZACやカナダ軍と共同でトルコ上陸を目指したが作戦は見事な失敗に終わった。これがガリポリの戦いでイギリス軍を主力とする連合軍は4万人以上の戦死者と倍近い負傷者を生み出したがトルコを陥落させることはできなかった。ガリポリやソンムでの戦いが多大なる犠牲を出しながらも何も得ることが無かったということが判明するとイギリス本国では政変となった。首相のアスキスはその座を引きずり下ろされ、代わって陸相のデビッド・ロイド・ジョージがその後を襲った。この時の政変が戦後のクーポン選挙の遠因になっている。総力戦 さて第一次大戦は人類史上初の世界的規模で展開した最初の総力戦となった。この経験はイギリスに限らず、ヨーロッパ全土に歴史的な影響を残した。総力戦では国家の持てる軍事力以外にも、工業力、経済力、外交能力などあらゆる能力が全て戦争に動員される。イギリスにおいてもこの期間イノベーションが進み、西部戦線での塹壕突破を目的として戦車が発明された。