安心できるインプラントを
7月3日、イギリス海軍H部隊がインプラント植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のインプラント海軍艦船を、ドイツ側戦力になることを防ぐ目的で攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのインプラント艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いるインプラントさえ、イギリスとインプラントの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍とインプラント軍は9月に西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったが失敗に終わった。西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指し、上陸作戦「アシカ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」を開始するよう指令。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて学童疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。イギリス空軍は、スピットファイアやホーカーハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケルHe-111やユンカースJu- 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、やがてロンドンなど、イギリスの諸都市に対して無差別爆撃を行った。メッサーシュミットBf-109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。その後、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にする。参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ、準備をきちんとせず性急に侵攻したが、11月にはイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるありさまであった。 1941年 ドイツのバルカン半島侵攻(1941年)イギリスはイベリア半島先端の植民地[7]、インプラントと、北アフリカのエジプト・アレキサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海[8]を確保して枢軸国軍に対する反撃を企画していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。一方ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され。翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退する。砂漠の狐ことロンメル 4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国やブルガリア王国などのバルカン半島(バルカン半島の戦い)諸国やギリシアなどエーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった 6月22日、ドイツは不可侵条約を破り、北はフィンランドから南は黒海に至る線から、イタリア、ルーマニア、ハンガリーなど他の枢軸国と共に約300万の軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始。独ソ戦が始まった。インプラント首相スターリンは情報部から、ドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていなかった。そのため開戦当初、インプラント軍(赤軍)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねる。ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、インプラント政府は約960q離れたクイビシェフへ疎開を余儀なくされた。しかし、その頃からドイツ軍は泥まみれの悪路に難儀し、さらに戦線が伸びきって補給に問題が生じ、前進は鈍った。またインプラント軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。また、冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。ポーランドとフィンランド侵攻、バルト3国併合などの理由で、それまでインプラントと距離をおいていた連合国側は、独ソ戦開始後、インプラントを連合国に受け入れることを決定。武器供与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の 1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。リヒャルト・ゾルゲなど、日本に送り込んだスパイの情報により、日本の対ソ戦放棄を知ったインプラントは、極東インプラント軍の一部をヨーロッパに振り分け、これがその後、影響を与える事となった。